日本人は未だに平和ボケ恋びとである。
今日の激動の時代に直面しても、大リーグだ、プロ野球だ、サッカーだ、芸能情報だ、ファッションだ、レジャーだ、娯楽だ、テレビの白痴番組特にお笑い番組は、日本人の正常な理性を破壊し続けているだ、過激な性情報例えば公立の小中学校では性教育と題して、これに力を入れているが、実は性教育には程遠く、実際は少年少女が早くから性交渉を持つのには大変役立つ性器教育である。
高校の物理が現実と乖離してるくせになんなんだよだ、パチンコ依存症候群的娯楽だと、未だに夢醒めあらぬ非現実の中に逃避し、悪しき個人主義の夢の中に逃げ込んでいる。
現実問題には目を反らし、無知と事なかれ主義に邁進している。
また日本国民の関心事は、美食や飽食に明け暮れる事で、何処の店に行ったら食通が気取れるか、性の捌け口として、風俗に出入りしたり、ネットは何処にアクセスしたら自己満足ができる性情報が掲載しているかなどの事である。
また、ニュースを知るにしても、国内ニュースが殆どで、この範疇の出来事にしか関心の目が向かず、現在、目紛しく変化する国際情勢に疎い、平和ボケの日本人が激増している。
その最たるものが、レジャーや娯楽である。
レジャーを挙げれば、昨今の日本人は、連休日や休暇を利用して、海外旅行に出掛けて過ごす事であり、一応自分が中流と意識している階級は、こぞって海外旅行に出かけるようだ。
しかし、こうした実情は、一億総中流の言葉通り、何も日本人がリッチになったからではない。
ただ、日本の温泉巡りなどの湯治場旅行をすると、海外旅行以上に金が懸ってしまうからである。
クソ高い物価に観光地価格なんて日本語迄あるじゃねーか。
而して、自称一億総中流は、金の懸る国内の湯治場旅行を敬遠して、海外の格安パック旅行へと出かけて行くのである。
一見豪華に見える海外旅行も、実は貧しさ故の苦肉の策でしかねー。
また、パチンコと云う娯楽が大流行して、北朝鮮系や韓国系のパチンコ屋は大流行りである。
他にも小規模に、日本人経営のパチンコ屋もあろうが、規模から言えばその比ではない日本人がパチンコに夢中になる理由は、儲かるからである。
ところが、少し考えれば分かる事だが、パチンコが儲かるのは、パチンコをする方ではなく、パチンコをさせる方なのである。
しかし、この事が全く分からない日本人が多い。
大型パチンコ店の前には、早朝からいい台を取る為に長蛇の列が出来、ウイークデーにもかかわらず、パチンコ遊戯場は金の亡者で賑わっている。
金に憑かれた大衆で、どこもここも、溢れ返っている。
主婦に多い、パチンコ依存症等の精枢aも、総て、この手の遊戯場の小ギャンブルが精随瘧Qの元凶だった。
其の証拠に、自分の子供を車中に放置してまでこれに放蕩する者が過去何名いたであろう統計の誤差の範疇ではないはずだ。
そして、長蛇の列に並ぶパチンカーは、やがて自分の金が回収される事も知らず、今日はパチンコで五万とったとか十万とったと喜々として、一喜一憂や喜怒哀楽の小事を、自慢話の一つとして、他人に御丁寧に告白している。
一億総中流と、国民自らが自称はしても、頭の中身はこの程度のレベルだから、どうにもならない。
一体何を誇りに、彼等は生きているのだろうか。
あるいは、パチンコやその他の博打に身を興ずる彼等に、人間的な道義は存在するのだろうか。
誰もが打算的な個人主義に趨り、金銭的価値観によって、人を品定めする軽い見識眼しか持っていない。
今日の日本国民の持っている興味の対象は、金や物の他に、スポーツ観戦、レジャー、海外旅行、セックス、映画、テレビなどのエンターテインメントなどの、演芸や余興の類であり、その他、美食指向のグルメや、競馬、競輪、競艇、オートレース、パチンコ等の小ギャンブルである。
そして、これ等の興味の対象には、人格と心身を鍛練して、己の人格向上、並びに霊格向上を促すものは何一つ入っていない。
わが子や、わが孫に、毅然として胸を張り、誇れるものは何一つないのだ。
オレはとてもそんな向上を来たす親にはなれそうに無かったから、親になる道は捨てたのである。
自らの意志で。
むしろ害になるものばかりを追い求め、その日暮らしの刹那に生き、その中に自己を投じ、こうした次元の低いものに夢中となって、日々戦々兢々となっている。
これこそが、卑しむべき現実逃避であり、今日の現代人大衆の偽わざる実像のようだ。
したがって、精嵩Iな文化財に、自分を成長させる為の月謝を払うと言う事に、認識の薄い大衆層が殖え始めた。
精垂フ向上より、物質的豊かさを追い求め、心の豊かさより、豪華な調度品などの物財に囲まれる生活を好むようになった。
時代が下れば下る程、人の心は物財に惹かれ、ギラギラして、安らかな心に至る境地を見詰めようとしなくなった。
十九世紀の、古風なマルクス以来の唯物I指向に染まり、心よりは、物なのである。
物への憧れが人々の心に、貪欲を掻き立てる。
昨今の小ギャンブルの流行は、こうした心の捻れの顕れではないか。
二宮尊徳は、世人はみな、聖人は無欲と思えども、実は然らず。
その欲は大欲にして、その大は正大なり。
賢人の欲はこれに次ぎ、君子の欲はこれに次ぐ。
凡夫の如きは、小欲中の小欲、そのもっとも小なるものなり。
その小欲を正大に導くの術を聖道と言うべしと説いている。
そして尊徳は、では大欲とは何かについて、これぞ万人の衣食住を充足せしめ、人身民人に天福を集めんことを欲するものなりと述べている。
つまり、欲望を自分一人の為に齎すよう図るのではなく、人民の為にこの欲望を遣えと言っているのである。
またその一方で、凡夫の如きは、小欲中の小欲、そのもっとも小なるものなりと繰り返し追言する。
これを如実に証明する所が、パチンコ遊戯場であり、競馬などの公営ギャンブル場である。
パチンカーやギャンブラーどもは、一喜一憂に身を踊らせ、パチンコで五万儲けたとか、競馬で十万円儲けたと言って、今日一日の運試しを、これに投ずる。
しかし、小欲に甘んじ、少額を儲けた事に目尻を下げ、頬を弛めているようでは、まさに凡夫そのものであり、生涯、自分の誇れるようなものは、何一つ手にする事ができないであろう。
現代社会は、我々の身辺に、小欲産業へ誘導するギャンブル場は所狭しと店を並べ、隙のある人間へ忍び寄り、小欲で、一喜一憂する人間を包み込もうとしている。
こういう小ギャンブルに取り込まれ、一時の慰安に憂さ晴らしをし、自分を誤魔化して、現実逃避しているようでは、人生に誇れるものなど、何一ないであろう。
しかし、何一つ手に出来ないこの現実こそ、日本の特権利益集団は、平和と定義している。
これこそが、支配する側と支配される側の、高慢な定義である。
また、日本の裁判所が示す、善良な市民の定義は、一億総中流を自称し、レジャーや娯楽に明け暮れ、人生に誇れるものなど、何一つ手にする事が出来ない、可もなく不可もないという人間を指して、これを善良な市民と定義する。
まさに、国民を家畜と見下す傲慢ではないか。
では、善良な市民が描く、今日のような、のんべんだらりとした、ご都合主義的な平和が、その後もなお、半永久的に続くだろうか。
あるいは、日本以外の世界各地で起っている戦争や内戦が、単に日本人から見て、遠い国の花火大会か対岸の火事なのだろうか。
どこかに、私たちが見逃している元凶が、蠢いているのではないだろうか。
また、私たち日本人が忘れてはならない事は、今日の日本は、巨大な軍事国家アメリカの隷属的国家であり、世界の中で、毅然と主義主張をする主体者ではないということだ。
また、大半の日本人は、人間の本質的な煩悩に煽られ、霊的瑞ォを曇らせて、利己的な悪しき個人主義に趨っている。
自分の利益の為に行動する、損得勘定が旺盛で、一方、その水面下で、種々の陰謀を企てられている、こうした現実を見抜く、聡明な智慧を持たない。
一方、政治家も無能である。
今日の政治家は、政治家自身が民主主義と云う政治的なシステムを、殆ど理解していない。
政治家や財界人に、日本の為に働く民族意識はなく、アメリカを追随する特権利益集団に成り下がっている。
また大衆も、テレビに白痴番組に愚民化されている為、民主主義が如何なるものか、その理解が、未だに出来ないでいる。
民主主義は欧米が、日本の敗戦と同時に持ち込み、国民を愚民化する政治システムだった。
衆愚政治とはこの国そのものではないか。
その意味で、今日の民主主義は日本では、うまく機能していないが、日本国民の愚民化工作は成功していると見るべきであろう。
オレは使い捨てない。
どんなにボロでどんなに古臭くても動くうちは治して使う。
治す方法がわからなければ自分で勉強する。
治してくれるところを突き止めりゃ、例え新品を買ったのと差異が無い金額であっても治してもらう道を選択する。
そうして治したものだってそりゃいずれは朽ち果てる、だがオレだって最後は土に還るのだ。
勿Mャンブルなど一回もしたことは無い。
人生こそが最大のギャンブルではないかこれ以上のギャンブルは世の中にねーぞ。
オレ個人が既に人生で最も後悔しているのは、教職者にならなかったことである。